キリスト的ビジネス思考・・・生活のためにやったこと。
わたしは仕事で“悪い商品”を売った経験があります。これを売ったらお客さんのためにならない、ということが分かっていたのに単純に儲かるから、それを売りこみました。会社のため、生活のためにそれをしました。クリスチャンになる前のことですが、大変な罪です。と言うよりむしろ、そんな仕事をやり遂げる自分を誇らしく思っていたことこそが、大きな罪だったのかもしれません。
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マタイによる福音書4:18~20)
イエス様が弟子をとる聖書の中の有名な場面です。シモン(ペトロ)とアンデレは漁師でした。つまり魚をとることが二人の仕事でした。しかし、イエス様は「人間をとる漁師にしよう」と言われます。声をかけられた二人は、家族や仲間に相談することなく、身なりを整えることも、網を片付けることさえなく、そのままの姿でイエス様に従ったのです。
魚をとる漁師は【食べるため(殺すため)】に魚をとります。しかし、人間をとる漁師は、人間を【生かすため】に人間をとります。これはわたしたちへの呼びかけでもあります。何もわたしたちに、今の仕事を捨てよとか、漁師になれ、ということではありません。今のままの仕事であっても(もちろんあなたの職業が魚をとる漁師さんであっても)「わたしについて来なさい」というイエス様の呼びかけに応えるなら、その人は「人間をとる漁師」になります。そのままの自分で、人間を【生かすため】に仕事をすることになります。神様は必ずその人を通して周囲の人たち(会社の同僚や取引先等々)にすばらしいことをしてくださいます。そしてそのために自分がやるべきことをもっと考え始めます。それが知りたいために聖書を読み、祈り求めるようになります。その人自身も変えられ、周囲も変えられます。それら全てのことが“神様の祝福”なのです。
イエス様はわたしたちを、そしてもちろんあなたを招いておられます。
次の○○の中に、ぜひあなたの職業を入れてみてください。
「わたしについて来なさい。人間をとる○○にしよう」
誰に祈るのか③
日本にたくさんいる、神様。
どの神様に祈るのか、それは個人の自由です。
しかし、やっぱり私は一番偉大な神様を信じたいし、祈りたい。
一番偉大な神様とは、天地万物を造られた神様。
そして、命を造られた神様のことです。
なぜ、私たち人間は生きているのでしょう。
と、言うと
何だか哲学的な難しい話になりそうですが、そうではなくて
なぜ、人間の心臓は動くのか。
なぜ、人間は考え、自発的に行動するのか。
その仕組みはどうなっているのか、ということです。
あるバラエティ番組で、医療評論家の方がコメントされておりました。
「人間は、全て脳からの電気信号で動いている。生きているとは、その信号が脳からきちんと出ている状態のこと。だから、霊とか魂とか、関係ないんですよ。」
と、こんな感じのコメントでした。
それは分かります。実際、脳から電気信号は出ているのだと思います。
でも、それだけでは「霊とか魂とか」を信じる人と意見は平行線です。
要するに、「脳から電気信号」が出るように仕組んだのは誰か、と。
もっと言えば、「電気信号」なるものを作ったのは誰なのか、ということです。
それこそ、人間を造られた方の仕事としか、私には考えられません。
人間だけではなく、他の動物だって同じことです。
植物だってそう。
なぜ、花はあんなにキレイな色に咲くのですか?
種の保存のため、虫たちをおびき寄せるから?
電気信号によって?
植物に脳は無いですよ?
ウーン。。。(+_+)
人間を形成している物質は、地球上に全て存在するそうですね。
アミノ酸とか、そういう物質のことですが。
しかし、じゃあ、その物質を集めて来て人間を組み立てろ、と言われてもできない。
では、なぜ人間やその他の生き物は今、世界中にいるのでしょう。
誰が、最初に物質を集めて組み立てたのでしょう。
やっぱり、命の成り立ちって、科学理論でどれだけ突き詰めても、最後には
「偶然」
という言葉を使わなくては説明できないと思うのです。
そして、それは本当に「偶然」なのか。
科学に「偶然」なんてあるのか。
そのあたりが、意見の分かれ道ではないでしょうかねえ。
誰に祈るのか②
祈ることは、求めることでもあります。
自分ではもちろん、人間の力ではどうにもならないことを訴え、助けを求める行為が「祈り」です。
それならば、誰に(何に)祈れば良いのでしょう。
誰に助けを求めればよいのでしょう。
人間を超えたチカラの持ち主に祈るしかありませんね。
それこそ、「神」に祈るべきではないでしょうか。
日本には「神」が大勢いますが、どうせ祈るなら、なるべく強い神様に祈った方が良いですよね。
中には「大自然が神」とか、「大宇宙こそ神」という人もいます。
確かに大きいから、お社にいる神様よりなんとなく強そうです。
ただし、大自然にしても大宇宙にしても、造られたものです。
神様って誰かに造られるものですか?
誰かの、何者かの手が入らないと神様は存在し得ませんか?
そんなはずはないですよね。
ということは、
大自然は「神」ではありません。
大宇宙も「神」ではありません。
大自然と大宇宙を造られた方こそが「神」です。
だから、
大自然を祀るのはやめましょう。
大宇宙を拝むのもやめましょう。
それらのものを造られた方こそ、本当の「神」だからです。
本当の「神」とは、天地万物を創造され、人間は元より大自然やこの世の全てを支配するお方。
それ以外、たとえ「神」を名乗っていても、それは「神」ではありません。
それは、偽(ニセ)神様です。(似せ神様でさえありません。)
偽神様に祈ることは自由です。
私たちは自由なので、何に祈ることも自由にできます。
でも、それは偽神様です。
人に造られたものは、「神」ではありません。
人を造ったものが、「神」です。
本当の神様とは、この世の全てのものより強く、力があり、全ての権威を超越します。
なぜそんなことが言えるのか?
「神」はご自分の意志により、全てのものを造られたからです。
自分で造ったものを自分で支配するのは当然ですよね?
そして私たちが誰に祈るか迷う時だって、一番強く、一番権威のある本当の神様に祈りたくなるのは、当たり前ですよね?
本当の神様にしてみれば、偽神様とは勝手に自分の名を騙り、せっかく自分が造ったものを奪おうとする不届き者ということになります。
「悪」そのものです。
「悪」も時には役に立つ(と思われるような)ことをするので、我々もうっかり本当の神様と間違えてしまうことがあります。我々の近未来を言い当てることくらい、簡単みたいですよ。
でも、「悪」は最後に突き落とします。奈落の底に、ズドンと突き落とします。
しかも、突き落として終わり。
「お前の行いが悪いから、罰が下った」のだと。
突き落とされた奈落の底から救い上げてくださるのは、たったお一人。
本当の神様だけなのです。
誰に祈るのか①
「祈る」という行為は「願う」ことよりその人の強い意思を感じ、また具体的です。
たとえば、
「こうなったらいいなあ。」というのが「願い」。
「こうなりますように。」と手を合わせるのが「祈り」というように。
問題は誰に(何に)向かって祈るのか、です。
やっぱり「見えないチカラ」。
「神」に対してではないでしょうか。
自分ではどうにもならないことや、およそ人間には不可能と思われることが実現するように祈るには、「人間を超えたチカラ」にすがるしかないでしょう。
では、「神」とはどんな存在なのでしょうか。
日本は多神教国家であり「八百万(やおよろず)の神」がいると言われています。
それだけたくさんの神が信仰されているということでしょう。
山の神、海の神、縁結びの神、学問の神等々、、、それがまた、それぞれの神社ごとに別の神様が祀られているとしたら、ウーン、、、確かに相当な数の神様がいることになりますね。
また「神様、仏様!」と祈る言葉があるように、神も仏もごちゃ混ぜになっている場合があります。
「仏」は元々、釈迦のことですよね。つまり、元人間。
祈るのは自由ですが、やっぱり神様とは違うと思うのです。
なぜなら、人間は「神」にはなれないのです。絶対に。
とても大事なので繰り返しますが、人間は絶対に「神」にはなれません。
亡くなられた軍人方を祀って「神」としている神社もありますが、、、
ちょっと無理があると思っています。
もう一度、繰り返します。
人間は絶対に「神」にはなれません。
もちろん、物(もの)も「神」ではありません。
なぜ、しつこく繰り返すかと言いますと、そこを勘違いして悪徳宗教やカルト宗教の被害に遭われている方もおられるからです。
比喩的に「神の子」とか、最近では「〇〇の神」などともてはやす風潮がありますが、それはあくまで比喩であって、神のようにすばらしいと称賛しているだけのことです。
(本当の神様はもっとすばらしいのです)
では、「神」とは一体何なのか。どんな存在なのか。
わたしの考えを、次回書いてみたいと思います。
1%のさらに半分以下のワタシ。
私はキリスト教信徒です。
いわゆるひとつの、クリスチャン。信仰歴は20年です。
キリスト教は大きく、「カトリック」と「プロテスタント」に分けることができ、
(どちらにも属さない「正教会」もありますが少数ということもあり、ここでは触れません。)
私は「プロテスタント」の教会に属しています。
プロテスタントにはカトリックのようなシスターはいないし、(私自身よく聞かれるのですが)洗礼名もありません。
教会の建物も、カトリックと比べると地味ィ~なものが多いです(笑)。
屋根に十字架が無ければ、普通の民家に間違えられそうな建物もありますね。
建物の中も地味です。基本的には、演台とイス、オルガンと十字架。
あとは壁に、いろいろなお知らせの貼り紙や、信徒が持ってきたであろう、絵画などの飾りがある程度です。
それでも専用の会堂がある教会は恵まれている方で、信徒の自宅を開放して礼拝や集会を開いている教会もあります。
あ、ちなみに勘違いされやすいのですが、教会とは建物のことではありません。
イエス・キリストを信じる者が集まる共同体(群れ)そのものを指します。
共同体ですから、一人では教会と言えません。
必ず二人以上は必要ということですね。
逆に言えば、二人以上、キリストを信じる者が集まるなら、
自宅であろうが、カフェであろうが、近くの空き地であろうが、そこは教会です。
キリスト教は世界最大の宗教のはずなのですが、日本におけるキリスト教徒の数は、
全人口のおよそ1%(!)と言われています。
百人集まって、やっと一人(笑)です。
これはあくまで洗礼(バプテスマ)を受けた人の数字であり、定期的に聖書を読み、礼拝(カトリックにおいてはミサ)をささげている信徒となると、さらにその半分以下のようです。
私はおそらく、その半分以下の中に入っていると思います。
これからこのブログで、20年の信仰歴から思ったこと、分かったことなど書いていきます。
キリスト教の難しい話ではなく、キリスト教徒以外の方にも分かりやすいブログにしたいと思っています。
キリストの教えは、教会の中だけでなく、日常の生活の中で力強く働いているのですから!
今日、祈ってみませんか?
もし、あなたが何か問題を抱えていたり、不安に思う何かがあるなら、
今日、祈ってみませんか?
祈る内容は自由です。
祈り方も自由です。
神棚に向かって祈るのもよし。
仏壇に手を合わせてもよし。
宗教をお持ちの方は、その祈り方で。
問題は、祈った後です。
それが大切だと思いませんか。
祈りの結果はすぐに出ないかもしれません。
しかし、
どんな気持ちになるか。
祈りは通じたと感じられるか。
なぜ、祈りは通じたと言えるのか。
忙しい日常の中、少しだけ心を静めて
祈りの時間を持ってみることは、
すごくいいですよ。
超オススメです。
「祈り」は行為か、行動か。
「祈り」が「行為」であることは間違いないでしょう。
「行為」とは、『人が意志(意思)に基づいてすること。』(Wikipediaより)
だそうです。
ということは、それには「行動」が伴わなければいけないということでしょうか。
行動が必要だとするなら、どんな風に行動して祈るのでしょう。
神社や神棚で柏手を打って祈るという「行動」。
お墓や仏壇に手を合わせるという、これも「祈り」でしょうか。
また、パーティーや集会などの挨拶で、
「皆さま方の益々のご発展を『祈念』申し上げ・・・」
なんて言葉を聞きますよね。
そしてその後、「・・・それではお手を拝借!イヨ-ォ!」
なんて続くわけですが、
これも「祈り」の「行動」なのでしょうか。
では、病気やケガで身体が動かせず、手を合わせることすらできない人は、どうなるのでしょう。
「祈る」行動ができない人は、「祈る」資格が無いのでしょうか。
神社に行けない人は?
お墓に行けない人は?
そう聞くと、
「行けるなら行った方がいいさ。でも行けないなら・・・仕方ないね。自分で決めるしかない。」
おそらく、そう答える人が多いと思います。
結局、自分で決めるしかないのでしょうか。。。
家で(あるいは病院等で)何も行動せず、心の中だけで祈っていいのなら、どんなに楽でしょう。
そして、もし家で祈るだけで良いとしたら、実際に神社に行って祈る人と効果は違うのでしょうか。
同じ?
なら、どうしてわざわざ神社へ行くのですか?
人間とはなんとも不合理で不思議な生き物ですねえ。