大罪人の祈り

「祈り」とは。「祈る」とは。

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政権批判などしている場合か。

私は何をするにも、目的が無いと嫌なタイプです。

何を目指し、なぜそれをするのか。

クリスチャンとしての個人はキリストに倣い、キリストの似姿になるというところを目指すべきなのでしょう。

(とても難しいことではありますが。)

では、そのような者が集まる教会が目指すべきはどんなことでしょう。

 

結局のところ、

教会の働きの一番の肝、つまりミッションは「苦しむ者に寄り添う」ことではないかと思うのです。

「苦しみ」には様々あります。健康・人間関係・家族関係・仕事・経済的なこと…

「苦しみ」とは言い換えれば「痛み」です。 

100人いれば100通りの「苦しみ」があり、「痛み」があります。

そしてそれは教会の内も外も関係なく、他者であるとさえ限らない。

「苦しむ者」とは自分自身かもしれないのです。

自分自身に寄り添うというのも奇妙な言い回しですが、苦しむ自分を受け入れ、慰め、労わるということはとても大切なことだと思います。

そして寄り添い方も様々で、それこそ大いに賜物を発揮すべき時でしょう。

教会のあらゆる活動・イベント・集会は、そのための手段であると思います。

 

「弱者」ではなく「苦しむ者」。

「弱者」という響きには、どことなく自分は「強者」というニュアンスがあります。

「社会的弱者」のことを指す場合が多いからかもしれません。

 

教会においては、「強い者」も弱い。苦しむのです。

教会においては、「弱い者」が「強い者」に寄り添うことが大いにあり得ますし、

「苦しむ者」が別の「苦しむ者」に寄り添うところには必ず神の大いなる慰めと励ましがあると信じます。

 

「苦しむ」人の姿は、神様が望む姿ではないのです。

神様が人間を造られた本来の目的とかけ離れた姿です。

 

だから教会は「苦しむ者」にこそ寄り添うべきと考えます。

今は出来なくとも出来るように祈り、そこを目指すべきだと思います。

 

もし、それが出来ないのなら、

教会は政権批判などしている場合ではないのではないでしょうか。

 

 

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