誰に祈るのか①
「祈る」という行為は「願う」ことよりその人の強い意思を感じ、また具体的です。
たとえば、
「こうなったらいいなあ。」というのが「願い」。
「こうなりますように。」と手を合わせるのが「祈り」というように。
問題は誰に(何に)向かって祈るのか、です。
やっぱり「見えないチカラ」。
「神」に対してではないでしょうか。
自分ではどうにもならないことや、およそ人間には不可能と思われることが実現するように祈るには、「人間を超えたチカラ」にすがるしかないでしょう。
では、「神」とはどんな存在なのでしょうか。
日本は多神教国家であり「八百万(やおよろず)の神」がいると言われています。
それだけたくさんの神が信仰されているということでしょう。
山の神、海の神、縁結びの神、学問の神等々、、、それがまた、それぞれの神社ごとに別の神様が祀られているとしたら、ウーン、、、確かに相当な数の神様がいることになりますね。
また「神様、仏様!」と祈る言葉があるように、神も仏もごちゃ混ぜになっている場合があります。
「仏」は元々、釈迦のことですよね。つまり、元人間。
祈るのは自由ですが、やっぱり神様とは違うと思うのです。
なぜなら、人間は「神」にはなれないのです。絶対に。
とても大事なので繰り返しますが、人間は絶対に「神」にはなれません。
亡くなられた軍人方を祀って「神」としている神社もありますが、、、
ちょっと無理があると思っています。
もう一度、繰り返します。
人間は絶対に「神」にはなれません。
もちろん、物(もの)も「神」ではありません。
なぜ、しつこく繰り返すかと言いますと、そこを勘違いして悪徳宗教やカルト宗教の被害に遭われている方もおられるからです。
比喩的に「神の子」とか、最近では「〇〇の神」などともてはやす風潮がありますが、それはあくまで比喩であって、神のようにすばらしいと称賛しているだけのことです。
(本当の神様はもっとすばらしいのです)
では、「神」とは一体何なのか。どんな存在なのか。
わたしの考えを、次回書いてみたいと思います。
1%のさらに半分以下のワタシ。
私はキリスト教信徒です。
いわゆるひとつの、クリスチャン。信仰歴は20年です。
キリスト教は大きく、「カトリック」と「プロテスタント」に分けることができ、
(どちらにも属さない「正教会」もありますが少数ということもあり、ここでは触れません。)
私は「プロテスタント」の教会に属しています。
プロテスタントにはカトリックのようなシスターはいないし、(私自身よく聞かれるのですが)洗礼名もありません。
教会の建物も、カトリックと比べると地味ィ~なものが多いです(笑)。
屋根に十字架が無ければ、普通の民家に間違えられそうな建物もありますね。
建物の中も地味です。基本的には、演台とイス、オルガンと十字架。
あとは壁に、いろいろなお知らせの貼り紙や、信徒が持ってきたであろう、絵画などの飾りがある程度です。
それでも専用の会堂がある教会は恵まれている方で、信徒の自宅を開放して礼拝や集会を開いている教会もあります。
あ、ちなみに勘違いされやすいのですが、教会とは建物のことではありません。
イエス・キリストを信じる者が集まる共同体(群れ)そのものを指します。
共同体ですから、一人では教会と言えません。
必ず二人以上は必要ということですね。
逆に言えば、二人以上、キリストを信じる者が集まるなら、
自宅であろうが、カフェであろうが、近くの空き地であろうが、そこは教会です。
キリスト教は世界最大の宗教のはずなのですが、日本におけるキリスト教徒の数は、
全人口のおよそ1%(!)と言われています。
百人集まって、やっと一人(笑)です。
これはあくまで洗礼(バプテスマ)を受けた人の数字であり、定期的に聖書を読み、礼拝(カトリックにおいてはミサ)をささげている信徒となると、さらにその半分以下のようです。
私はおそらく、その半分以下の中に入っていると思います。
これからこのブログで、20年の信仰歴から思ったこと、分かったことなど書いていきます。
キリスト教の難しい話ではなく、キリスト教徒以外の方にも分かりやすいブログにしたいと思っています。
キリストの教えは、教会の中だけでなく、日常の生活の中で力強く働いているのですから!
今日、祈ってみませんか?
もし、あなたが何か問題を抱えていたり、不安に思う何かがあるなら、
今日、祈ってみませんか?
祈る内容は自由です。
祈り方も自由です。
神棚に向かって祈るのもよし。
仏壇に手を合わせてもよし。
宗教をお持ちの方は、その祈り方で。
問題は、祈った後です。
それが大切だと思いませんか。
祈りの結果はすぐに出ないかもしれません。
しかし、
どんな気持ちになるか。
祈りは通じたと感じられるか。
なぜ、祈りは通じたと言えるのか。
忙しい日常の中、少しだけ心を静めて
祈りの時間を持ってみることは、
すごくいいですよ。
超オススメです。
「祈り」は行為か、行動か。
「祈り」が「行為」であることは間違いないでしょう。
「行為」とは、『人が意志(意思)に基づいてすること。』(Wikipediaより)
だそうです。
ということは、それには「行動」が伴わなければいけないということでしょうか。
行動が必要だとするなら、どんな風に行動して祈るのでしょう。
神社や神棚で柏手を打って祈るという「行動」。
お墓や仏壇に手を合わせるという、これも「祈り」でしょうか。
また、パーティーや集会などの挨拶で、
「皆さま方の益々のご発展を『祈念』申し上げ・・・」
なんて言葉を聞きますよね。
そしてその後、「・・・それではお手を拝借!イヨ-ォ!」
なんて続くわけですが、
これも「祈り」の「行動」なのでしょうか。
では、病気やケガで身体が動かせず、手を合わせることすらできない人は、どうなるのでしょう。
「祈る」行動ができない人は、「祈る」資格が無いのでしょうか。
神社に行けない人は?
お墓に行けない人は?
そう聞くと、
「行けるなら行った方がいいさ。でも行けないなら・・・仕方ないね。自分で決めるしかない。」
おそらく、そう答える人が多いと思います。
結局、自分で決めるしかないのでしょうか。。。
家で(あるいは病院等で)何も行動せず、心の中だけで祈っていいのなら、どんなに楽でしょう。
そして、もし家で祈るだけで良いとしたら、実際に神社に行って祈る人と効果は違うのでしょうか。
同じ?
なら、どうしてわざわざ神社へ行くのですか?
人間とはなんとも不合理で不思議な生き物ですねえ。
「祈る」ってどういうことなんだろう。
「祈る」ってどういうことなんだろう。
困ったとき、願い事があるとき、思わず祈った経験のある人は、意外に多いと思います。
宗教をもっている人なら、その宗教の祈り方があるかもしれません。
そうでない人も、無意識の内に心の中で何かを念ずること。。。
日常の中で結構あるのではないかと思います。
「願をかける」のも、祈りのひとつ。
「ゲンを担ぐ」というのも、祈りの行為といえますね。
科学万能の時代に、得体の知れない「見えない力」にすがることって、とても滑稽ではありませんか?
人はなぜ祈るのでしょうか。
自分ではどうにもならないと感じるからでしょうか。
自分でどうにもならないのなら、他の誰かに頼んでみるのもひとつの方法です。
でも他の誰かではなく、思わず「見えない何か」に頼ってしまうのはなぜでしょう。
「見えない何か」ってなんですか?
見えない何かに、あなたの大切なことをお願いして良いのでしょうか。
見えないものに、あなたの願いを叶えることなんてできるのでしょうか。
とりあえず、祈るだけ祈ってみて
ダメでもともと?
叶えばラッキー?
そもそも、祈りなんて叶うのでしょうか?
あなたの周りに、「祈ったら願いが叶った!」と言っている人はどれくらいいますか?
このブログでは、分かっているようで分からない「祈る」という行為について、考えていきたいと思います。
もしよろしければ、お付き合いください。